昭和48年6月1日 月次祭 ★
今日から、俗に言う衣替えの月であります、え~、もう夏物に着替えさせて頂いて、形の上で、だけ変わるのでなくて、えぇ言わば心身共に、えぇ心から改まった、あぁ信心をさしてもろうて、えぇ、新たな信心、または、あぁ新たなおかげを頂いて行きたいと思います。
★今朝から、朝の御祈念に、うん、お知らせを頂きましたのに、大きな、こんな大きな、あぁ水槽の、鯉のお供えがしてありますね、あれのこんな大きいの、中にもうここいっぱいの、あの生き生きとした鯛が、え~、勢い良くその泳いでおるのを、ご神前にお供えを、しておるところを頂きました、え~、御祈念が終わりまして、御理解が終わりましてからでしたけれども、え~、小倉の富永さんが、あぁ、今朝の御祈念に参っておられました、そしてここでお届けをされますのに、「やっぱりそりゃ今朝の御理解ですよ」と言うて言ったことですけども、ここで丁度お祭かなんかに何時もお花を担当されますから、大きな鉢に、い~お花を入れておられる、それがなんと、大きなその、それこそ大きな鯛を真っ直ぐに活けておられる、してその音締に、大きな伊勢海老がこう、それがお花、あらお花を入れたと思ったらこれは鯛じゃ、横へおるのは伊勢海老、まあなんと素晴らしい花だと親先生が誉めておられるところを頂いた、ちょっと触るとその、一直線にこう立ててあるその鯛が、もうピピピッとこうヒレを、動かしておる、うぅ、ような有様の、おぉお夢を頂いたとこういう。
今朝そういうような意味での御理解を頂きました、生き生きとした、あ~、神様が言うならば、「今月は生きたおかげの月ぞ」と言うて下さっておるような気がするんです、それを私共がどう頂きこなすか、どう活き上げるというところに、今月はいよいよ焦点をおいて、お互いの信心を一段と、進めて行きたいと思うのです。
え~、生きた、あぁ信心から、ね、生きたおかげが生まれる、ね、その生きたおかげでなからなければ、生きた働きになってまいりません、まあ手っ取り早く分かり易く言うなら、ね、例えば、あ~、信心をさせてもらいよります、ね、まあ月次祭なんかはまあ、あ~、まあ何ですかね、日曜が多いですね日曜、まあ家族中でのお参りが多いです、もう普通はお参り出来んけれども、まあ日曜たんびんは、もうそれこそ今自動車で参ってみえますから、まあ家族一同で参ってみえる、まあ実にその、お~、和らいだ雰囲気の中に、家族中の者が、日曜は御礼日、お礼参り日として、えぇ本当に有り難い、い、お礼参拝をされる、また次の日曜を楽しみにお参りをされる、けれどもこれはね、私はキリスト教的であって、金光教的ではないと思うです、ね、どこまでもね金光教の信心は、お日参りの信心からです、ね、またはお日参り的信心からしか、生きた信心も、生きたおかげも生まれてまいりません、ね、まあそういう調子で段々商売なら商売も繁昌して、もう、を、言うなら財産が出けたといたしましょうか、そういう程度で頂いたおかげはです、そういう程度でただおかげを頂いて勿体無いとただ言うだけであって、勿体無いから、それをどう神様に喜んで頂くように、使わせて頂こうかというような、そのおかげが生きた働きをしないです、いやもうそげん生きた働きはせんでんもう自分だけ裕福になればいいという、これはもう、本当に金光教的じゃない、いやそれでは、お徳が受けられません、ね、ただ私がおかげを頂いたという、ね、その頂いたおかげでです、ね、神様に喜んで頂くような、ね、神様の願いが成就していくようなことのために、そのおかげが凝視されると、健康も、財も、ね、一切がです、ね、頂いておるその健康を頂いておるその財のおかげを、頂いておる家庭円満なら家庭円満のおかげを、上げてです、神様に喜んで頂く御用に打ち込ませて頂くというところに生きた働きを、おかげが生きた働きをするのです、それがお徳になるのです、ね、お願いをしておかげを頂いた、それだけでお徳にはなりゃしません、それでもなんとはなしに、良い雰囲気ですね、まあ、あ~、レジャーばやりですから、なら今度の日曜はどこに遊び行け、ここに遊びに行こうというような、あぁ人達も多い中にです、さあ日曜は合楽にお礼参拝の日ぞと言うて、お礼参拝をしてくる、それこそ抱く子引く子である、抱く子供も手を引っ張ってくる子供もある、そして自分の運転する自動車一台お礼参ってきて、一週間分のお礼を言うて、おかげを頂いておると、なるほどいかにも穏やかな信心ですけれども、そういう信心からもう一段前進した、ね、お役に立たせて頂く、言わばお役に立ちたいお役に立ちたいの一念がです、燃えてきて、そこにお日参り的信心というのが生まれてくる、またはお日参りが出けてくる、ね。
例えば遠方に、え~、例えば、今日、これも富永さんの、おぉ、お届けでしたけれども、丁度お母さんが、あぁ、四・五日ぐらいでしたしょうか、あちらへおいでっておられました、(お茶を飲まれる)、ははちゃっともう合楽の、五時の御祈念の時間には、もう目を覚ましてちゃっと起きる、まあ習慣っちゃ恐ろしいもんですと、こっちあたりはまだ一時ゆっくり寝とかにゃならん、それでもうお母さんまあ一時寝とって下さいっち言うけれども、もう五時になったらちゃっとこう起きられる、ね、私はそれだと思うんです、あの朝参り的信心とは、だから家でも出来るんです、ね、今朝伊万里から参ってきた津上さんが、朝参りが、勿論、伊万里から3時間も4時間もかかってからみえるのですから、今日は家族中で朝の御祈念に参ってきとりました、期せずして、え~、甥やら姪やらが長崎から参ってきとった、ね、そして朝の御祈念のちょっと後でしたけれども、一同揃うてから御理解、本当に側におらせて頂く方達がうらやましい、ね、なんとか言うなら、まあ今日の言葉で言うと、朝参りの信心、朝参り的信心を、例え自分の家でもさしてもらう、月に一回か二回かはこうやってお礼参りが出来るけれども、そこで先生4時に起こさせて頂いて、御祈念をしたが良いでしょうか、5時に起きて御祈念をさして頂いたが良いでしょうかとこう言う、うんそりゃ4時の御祈念と言やぁ、まあ親先生の信心、親先生の御祈念と一緒に、御祈念が出来るわけですけれども、それではね、昼眠気が来てはいけないから、五時の御祈念を正確に間違い無く、続けられたら良いでしょうと言うて、まあ申しましたことです、ね、いわゆる伊万里の遠い所におっても、朝参り的、その変わりにお参りをしてくる時にはもうそれこそ、お届のあったたっ、あの、皆さん朝参りをする方はご承知でしょうけれども、毎日のお日届けと、また特別なお願いがあった時の、お届けがちゃんとお届けの一つ一つに、何何の事、事情を書いて、お届けをしたお初穂を、がお供えがあるんです、ね、私は朝参り的信心というのはそういう信心です、そりゃ、ね、実際、事情が許さない場合はです、そういう信心にでも一つならせて頂く意欲を燃やさしてもろうて、ね、まあ福岡ぐらいからならば、日参のおかげを頂かせてもろうて、朝参りをおかげを頂かしてもらわなければいけない、ね、そういう、私は生き生きとした信心からです、生まれてくる生き生きとしたおかげ、ね、そしてそれが生き生きとお役に立たせてもらうところの、おかげに繋がって行くような、おかげを頂いて初めて、お徳が受けられる、今月はそういう鯛のおしらせをは、生きたお知らせ、いきっ、あぁ生きたおかげと仰る、おっ、鯛のお知らせはおかげと仰る、しかもそれが生きておる、いわゆる生きたおかげを頂かしてもらう、ね、生きた信心をさしてもろうて、ね、生きたおかげを頂いて、そしてその頂いたその、おかげがです、生き生きとして神様に喜んで頂く、信心に使うて頂く、そこに私共の、お道の信心さして頂く者の、生き甲斐というものが、感じられるような信心にお徳が受けられると私は思うです、ね。
★今日の御神前に丁度、午後の奉仕の時に、あれが沢山、あのお花のお供えを持ってみえた、それで娘があの御神前に入れさして頂いておりました、菊の花、あぁが中心ですから、菊の花だけではいけんというので、お庭からあのもみじの、青いもみじをこう、切ってきて、それを、おぉ、で、だいたいの形を作って、その中に、い~、まあ生き生きと、お~、花が、あ~、まあ出来ております、ね、そのもみじの葉がいっぱいこうある、その下の方から黄ない葉がこう二枚こう出ておる、それはあの八手の葉のもう枯れく落ちた、落ちておる、黄なぁくなっておる葉が下にこうやっておる、ね、それから、そのことから、神乍な御理解を私は頂いた、私はもう不思議でたまらないことは、信心が少ぉし段々分かってきて、えぇ後者になって、皆から、あぁまああちらの信心はと言われるようになると、合楽の場合は、皆信心が緩んでくるです、これは不思議です、これはもう私の信心の不徳なところだとこう思うんです、ね、今中心だ、あ~幹部だと言われるようになると、信心がこう緩んでくる、まあ皆が皆というわけじゃありませんけれどもだいたい、中に真っ赤なカネーションが三本こうまっ、まあ二・三人でしょう、もうその、そういう信心の熱情を燃やしておるという人が、もうほとんどが言わば、と言うておかげは頂いておる、八手のごたるとばこうやって広げとる、けれどもこれは枯れておる、ね、生きた信心ではなくて、枯れたおかげの受け物である、ね、歌の文句ではないですけれどもね、「君にもろうたハンカチの、ね、もみじの模様が、あぁ、気にくわん、何故にもみじが気にくわん、もみじ色付きゃ秋が来る」っちいう、合楽の信心はそういう感じなんです、なるほど今は生き生きとした青々としたもみじが入れてありますけれども、これが段々色付いてくると、言わば、その色付いたけさつにはもう、秋がすでにきておるというのである、こりゃぁもう合楽の信心の、有しい事だと、私は思う、ね、本当言うたら信心の喜びというものはもう限りがないもの、もう頂いて味合うて行けば行くほどにです、とてもとても油断どんが出来たり、または、あ~、疎かにども出来るはずはない、もういよいよその思いはつのって行くという、のが信心の喜びでなからなければならんのにです、ね、言わば信心が少し分かりだしてくるとです、あ、秋が来るというような、信心に出していったんでは、なるほど八手のような手で広げて、お、おかげは頂いておっても、生きたおかげでない、またはそれでは生きた働きはなんにも出来やしません、それではお徳を受けることも出来なければです、神様に喜んで頂くような御用も出来ません、ね、生きた信心、生きたおかげ、そしてその生きたおかげが生き生きとして、ね、健康の上だけではない、財の上だけではない、一切の生き生きとしたおかげが、生き生きとして世の中にために、ね、神様にお喜び頂いて、言うなら神願成就のことのためにそれが凝視されるというところからです、ね、神様のお喜びが信用にならないはずはない、神様の喜びが、お徳になって返ってこないはずはないというのがしんっ、お道の信心なんです、ね。(お茶を飲まれる)
昨夜は、え~、五月の最後の日でございますから、え~、御祈念の後に、い~、御礼信話会、というのが、それはこのお広前で、円をかいっ、円を、回して、円く輪を書いて、え、一人一人が一月の、頂いてきた信心、または頂いてまいりました、おかげを一口づつ、まあ発表するのです、神様にお礼を申し上げるような気持ちで、それを発表する、昨日の、会合は、もう本当に有り難い皆さんの発表を聞かせてもろうて、改めて、この六月、に入っての信心の一つの姿勢といったようなものが出けたような感じが、さしてもらった、一番最後に、締めくくりに上野先生あんたがお話しをして下さいっち、だから上野先生が最後にお話しをいたしておりましたが、もう本当にその最後のお話しなどは、もうこれはあぁ、取次ぎ者、信者問わず、本当にこの生き方、この精神、これを頂いていかなければいけないなということを、神様に色々お知らせを頂いておる話しを、先生しておりました、お夢ん中に、その、お便所に沢山し散らかしてあるけれども、誰もお掃除してない、とても水でザァーッと流したぐらいなことでは流れん、そこで填まって、そのおみっ、便所を綺麗に、まあお掃除をしておったというような、ことである、そういうお知らせを頂いた、これはもう十日も前だったでしょうか、神様に、色々お知らせを頂いたことが、あまりにも恥つかしいようなおはっ、事でございましたから、親先生にお届けもしえなかったけれども、今日はそこんところを、聞いて頂きたいと言うて、十日前に頂いた、お知らせの話しをしておりました、ご承知のように、ん~、体があんなに、言う事を聞かんのですね、何と言う、まあ医者に行ったら何と言うでしょうか、やっぱ大変な病名がつくでしょう、まあぁ上野先生と言やもう頑張りやさんで、辛抱強いで通っておる、う~、先生ですけれども、もうそれがもう辛抱が出けんほどに痛む、もう這いも立ちも出けんごとなる、それがです、そういうお知らせを頂いて、こちらずっと毎日元気で御用が出けておる、ね、その、例えばあぁお夢を頂いて、はぁ今日は大変厳しいお知らせを頂いたが、こんな事じゃいけん、丁度その日も、まだ体が本当ではないけれども、を、御用を終わって、あちらへ下がらしてもらった、二回、に女の修行生の方達の部屋がありますから、二回に上がった、だから辛抱すりゃ寝らんでも良かばってん、まあ、まあほっ、相済まんばってんと思うてまあ寝たと、寝たら早速お夢を頂いた、ね、そのお夢がとてもお届が出けないようなお夢であった、と言うて昨日話すんです、「先生その朝、ここへ、本当にハッと思うて起き上がって、お礼に出てき、お詫びに出てこらして頂いて、とてもそのお届はし得なかったら、★親先生がすぐ、「今日は上野先生、上野先生御祈念の時にあんたのことば頂いたばい」と言われた、ね、それはね、これはもう私が頂いたのですから、私がこういう話しをした、朝御神前に出らして頂いたら、上野先生がこんなに、急な山、坂道を登っておる、山の頂上はそこへ見えておる、そこの上に立派な家がある、ところがその家は、ぁその、家財道具も何にもない、いわゆる、そのガランとした空家である、その空家を目指して一生懸命登っておる、まあ、七合目か八合目かというところまで登っておる、そして背中にはいっぱい何やらを、をかろうておるけれども、それが少し、おもっ、もうきついと言うのでしょうか、それを下ろして登ろうとしておるお知らせであった、もうそん時に上野先生がもうびっくりした、自分が頂いたお知らせといい、または親先生が今朝から頂いて下さった、自分の事で頂いて下さった、そのお知らせといい、もう本当にハッと思うほどに、感じてそこからです、いわゆる生き生きとした信心が生まれてきた、おかげでです、それから、もうそれこそ体は脱ぐように、おかげを頂いて、御用が出来るようになった、ね。
お互い信心を進めさせて頂いておる、例えば、特にお道の教師というのは、ね、もう一生を道のために捧げるということは、ね、人が助かることのために捧げる、そこで生きた信心をさしてもらい、生きたおかげを頂いて、その生きたおかげが、人の助かることの働きになってくるというのであります、ですからこれは、教師、教師、信徒を問わずに、その精神がお道の信心には必要である、お徳お徳と言うけれども、お徳はそういう信心からしか、生まれてこないということなんだ、ね、言うなら人が助かることさえ出来ればと、例えばならここに御結界に奉仕をさして頂くということがです、ね、なら私で言うなら、大坪一家の生活のためにもし私が朝から晩まで座っておるとするなら、どんなにそれは厳しい修行をしておっても、値打ちはないと思うですね、それではお徳は受けられないと思うです、もう家族の事は神様に任せてある、ね、そしてただ人が助かることさえ出来ればという信心、そのためには私が力を受けなければならない、私自身がまずは助からなければならないという精進をさしてもらって、人が助かることのために、ここに奉仕さしてもらう、凝視させて頂くということからです、ね、初めて人が助かるということになる、人が助かるということが、神様のお喜びなのですから、お徳を受けるということになるのです、上野先生が頂いたお知らせというのはです、丁度私の、この御結界に、冬はあの紫の大きな座布団が、しいてあります、あの紫色の座布団に白い座布団をちょっとしいてから、してそのこっちから見えないようにこうくの字になって、その寝ておる、それを枕に寝ておるところを頂いたって御結界で、とてもとてもこげな、その、おぉ、ご無礼な、言うならば厳しい神様のお知らせではあるけれども、人んどん話されることじゃない、親先生にどもお届けは出来ない、自分の心の中に、はぁ~、例えば今日の生き方という、最近の自分の信心の生き方といい、こういうような状態、ね、それはね、例えばお広前におるのも、例えば裏で下がるのもです、同じということじゃない、問題は精神なんだ、ね、裏におってもちゃんと紋付袴付けとけということじゃないけれどもです、精神が、信者としての精神、取次ぎ者としての心構えというものは、いつも同じでなからなければならん、裏表があってはならないということ、それに御結界で寝ておる、そして、こっち神前の方から見えからんごたる風にこうやって、ね、こういうことでは、自分自身が助かることはない、または人が助かることもないというのである、親先生がお夢っ、お知らせに頂いて下さっておるところの、言うなら、大きな荷物をかついで、その空家へ向かってというのは、もうその、ね、布教所のことでしょう、もう立派な布教所、神様が準備してござる、そこんところへ向かって、一歩一歩近付いて行っておる、向こうへ付いたが最後、何の不自由もないぐらいに人が助かるおかげを頂くために、そのかろうておるのが、所帯道具とかもう、生活に必需な物をいっぱい、よう入れてかついでおるという感じなんです、「だから上野先生、あんた達が今一生懸命修行しるけれども、これをここに置いていったまま空家に、それ、到着した分じゃ、さあ布教に出てから大変な修行せんならんよ」と「ここで修行させて頂いておる間に、本気で人の助かるところの、言うなら元と言うか、ね、一切の、その家に、供えられるところの、家財道具から、生活に必需な、品が、まあかろうて持って行きよるようなもんだ、修行というのは、それをもうあっ、そこに見えておるのに、ああきついと言うて、下ろしておるようなことではです、ね、布教に出てからが、大変だぞ」ということなんです、これは、けれども取次ぎ者だけのことではない、私は今月の信心はです、そういう信心、きつかろう、眠かろう、ね、けれども、そこのところをです、私は辛抱させて頂いての信心、さっき(?)先生がここでお話しをしておられましたように、ね、それを泣く泣くでも、辛抱しいしいに有り難いというものを頂いて、今日は私、ゆっ、夕方からもう大変、最近久しぶりにきつかったんです、もう本当にとにかくきつかったんです、きつい時にはもうこんなバック持とごともないごときついです、私は、これはまあ糖尿病の特徴らしいんです、もうこの頃本当におかげ頂いてるんですけども、(お茶を飲まれる)、今日は本当にきつかった、八時の霊神様の前にでっ、出らせて頂くまでは、もうきつかったから、まあ信心っちゃぁ有り難い、ね、本当に良いせんっ、先輩を持っておるということは有り難い、ね、第一、三井教会の初代教会長、久留米の石橋先生、福岡の吉木先生、また小倉の桂先生あたりの、を御霊様達にです、神様今日はもう、私はもうきつうして、こうお祭を仕えれんごときついです、どうぞ力を与えて下さい、元気な心を与えて下さい、と言うてお願いさして頂いたら、★見事なプラチナの指輪に、ね、台座にですね、翡翠の玉を、ポッとこう入れて下さるとこを頂いた、そしたら、御祈念が終わる頃から、元気が出てまいりました、ね、こう指輪ということは、和ということでしょう、和賀心の和ということでしょう、私は今日そのお知らせを頂いて、はぁおかげは和賀心にありおかげは和賀心にありと言うがです、和の心を持っておると、さっきから申しました、1週間に一遍家族中でさあ今日は金光様参るぞと言う、これはまあ本当に、いりっ、家ん中が円満で、皆が信心に心を、を、向けて、さあそれを楽しみに参ってくると言うんですから、これは和の心です、けれども賀の心というものは私は今日始めていただっ、感じたんですけれどね、これは、あの、信心でいう喜びの心というのはね、生き生きとした、翡翠のような、言わばあの翡翠というのは、真っ青な色ですよ、青の色は元気な心とお知らせ頂くんです、ね、紫色が安心というなら、赤が信心の熱情というなら、言わば青の色は元気な心と仰る、その元気な心からを、通さなければ、元気な心を通さなければです、喜びというものは生まれてこないって、信心の喜びというものは、ね、だから朝参りでもさせて頂こうという元気な心からしか、和の心は頂けても、賀の心喜びの心は頂けないということです、ね、それは、プラチナか、いやサンプラチナか分からんけども、だいたい信心しよりゃ、和の心を頂いておるけれどもです、ね、それになら朝参りをしておるから、賀の心を頂いておるというのじゃないけれども、朝参りでもさしてもらわなければおあられないほどしの生き生きとした心というものが、喜びを受けるのです、いわゆる生き生きとした喜びなんです、これが賀の心だ、私は今日霊神様の前で、これに、もうその見事な翡翠をこれに、っとこう入れて頂くとこを頂いてです、そして、いわゆるこれからこう、血がね、こう逆流してくる、上の方へ上がってくる、それがこう元気な血がこう指先まで、え~、こう、おぉ、ひびっ、伝わってくるような感じでね、今日のお祭仕えさしてもらった、だからね、はぁもうきつかけんで休もうというとこにはもうないです、そこを押して神様お願いします、うんなら皆さんの、所の霊様なら霊様にでもです、お願いしますと、今日はもう本当に、もう眠うしてこたえませんけどもお願いします、そう押していくところへです、いわゆる次に与えられるのが、翡翠の玉である、青い元気な心である、その元気な心の向こうに、喜びの心があるということ、これが和の心であるが、和賀心である、ね、そういう心をです、燃やさしてもらい、そういう心を目指しての信心、ね、朝参り的信心、どうぞ出来ない人は、例えば今日鳥栖の上野さん達が、ああして一家で参ってきとりますがです、これはもう必ず五時の御祈念には家族中の者が皆勢揃いして御神前に出るそうです、そしてお父さんが先唱して、天津祝詞御大祓いを奏上さしてもろうて、今若先生の御祈念があっておる時だ、その御祈念に合わしての御祈念があって、朝一同がおはようございますを言うてから、お食事にかかっ、あっ、朝のそれぞれの御用にかかるということです、ね、ですから、あの、必ずお参りが出けんなら、そういう一つの生き生きとした雰囲気をです、自分の心の中から、自分の家庭の中に燃やして、ね、私は昨日一昨日皆さんに聞いて頂いたんですけれども、阿倍野の教会から、この春の大祭の、おぉ、パンフレットを送ってきた、その手紙にです、ね、今度の春の大祭には、合楽の先生の信心を語るという、講題で、合楽の先生の信心がおっ説教でお互い、皆が大変感銘を受けたとこう言われる、合楽の話しならば確かに感銘を、を受けるだろう、けれども感銘を受けただけでおかげを受けない、ね、これは困ったことだと、いや受けよるごたるけれども、途中になってくるとそれこそ何と言うでしょうか、ね、さっ、砂糖の気息子っち、太れば太るほど甘うなってくる、ね、それこそもみじじゃないけれども、色付いてくる頃には、秋が来てしまうと言ったようなことではです、いけないし、それがどういうところからなのかと、私はもう、とにかくいつも阿倍野の信心には魅せられております、だからどこにその原因がひそんでおるか、どこにあの、私は今度のそのパンフレットを見てから、驚いたことにはですね、毎月毎月の御本部参拝が、あぁ列車に二列車、二千人、それでまた驚いた事はです、秋の今度の九十年の記念大祭がです、やっぱり二列車、ほんなこつ言うならもう、五列車も六列車もあるかと思いよった、ところが、ね、そういう記念の大祭、内あたりは普通は七・八十人でしょ、ね、そして今度は二百五十名お参りを申込んであります、だからそんなひらきがあると、ところが阿倍野の場合はね、それはひらきがないんです、ということはどういうことかと言うとですね、もういつもが家族上げて、皆が一生懸命だということが分かるでしょうが、ね、もう毎月毎月が、家族中で参りよる、毎日毎日が家族中でお参りをしよりなさる、番頭さんを含めて十人おるなら十人の者が毎朝、朝の御祈念に、そして先生がお話しをしておられる、今その本を皆さんにこう、かいっ、回して読んでもらいよります、もう変哲な、もう難しいことやら一~つも言うてない、どの教話を頂いても、どのおかげ話しを頂いてもです、朝参りをしなさい、家族中で信心をしなさい、そして、え~、阿倍野教会のことを一生懸命願いなさい、これだけなんです、ね、阿倍野教会という教会が、神様がお作りになった教会ならばです、もう神様のことの手になろう足になろうということですから、ね、例えば去年あそこへ五十年の記念祭が終わった、そこでもうその翌日から、五十五年の記念祭は、もっとましな立派な、輝かしい記念祭でなきゃらにゃならんから、今日からは皆さん五十五年の記念祭のことを一生懸命願いなさいと、そしてより以上のお祭御ヒレイを、頂いたならばです、あなたの心の上にもあなたの家の上にも、教会と同じ御ヒレイが、それぞれに頂けるだろうと教えておられます、何故かと言うと、ね、なら合楽の場合でもこのお広前をです、大坪総一郎の力量で作ったなんていうことは皆さん、思いっ、私自信も思いませんし、皆さんも思いなさらないでしょう、なるほど神様じゃなぁ、神様がお作りになったと思うでしょう、その神様がお作りになったこのお広前のこと中心にです、祈るならば願うならばです、そのために御用の打ち込んで行くならばです、神様が氏子の家の、御用に打ち込んで下さらないはずがないのです、ね、ですから私は、ここんところを一つ真似で行かなきゃいけないと、ね、自分の事がまず出けて教会の事といったようなことではなくてです、ね、もう本当にそうです、ね、もうここに雨っ、雨漏りが随分長くもう、パラッと降ったっちゃ漏るです、もう本当降る時にはもう、降るようにあってるです、あれが銘々の家で、あれだけの漏っておったら、早よどうか、どげんかせにゃいかんでしょう、誰んどぉん言わん、で今日誰か、えぇ、高橋さんじゃったか、お届けがあって、え~、久富正義さんに、とか、あぁ、言うたとか、連絡とったとかという話しを聞きましたけれども、ね、もういよいよ露も近付いてきよるというのにです、もう実にまんまんでである、ね、だから本当に信心は自分の事としてのです、しかもこの教会がですよ、私が作った教会かなんからいい、皆さんがいくら打ち込みなさるなら、打ち込みなさるほど馬鹿らしかです、けれどもこの教会を皆さんがです、なるほど神様じゃなぁ、神様がお作りになったんじゃなぁ、神様がここを元として、ね、ここから難儀な氏子の取次ぎ助けられていく、人間の助かっていく場を、ここに定められたんだと、皆さんが信用して下さるなら、それこそ合楽教会のために本気で、祈らなければならん、本気でそのために修行しなければいけんのです、ね、一にも神様二にも神様で行っていいです、一にも教会二にも教会です、ね、そこで私共の例えばなら五十、五年祭から十年さいということですけれどもです、私共はなら今月、もう早速、大祓い式が、ね、あくっ、う~、交通安全祈願祭があります、もう一台でも多くの車の、持っておる人を、にお導きをさして頂く、これないチャンスである、ね、そのことに祈りをかけて、大祓い式が盛大に、おかげを頂いて、皆さんの一生懸命の、努力がそういう実を結ぶならば、皆さんの家の上に盛大なおかげのヒレイというものがただえはずはないと私は確信する、そういうところにです、合楽の信心は欠けておったように思うのです、ね。
どうぞ一つおかげを頂いて、今月は、とっ、とりわけ、生きたおかげ、生きた、おっ、おかげの頂けれる月であると、神様が言うて下さるのじゃから、本当に生きた信心をさしてもろうて、その生きたおかげが生き生きと、ね、社会を潤し、神様の御神願に、成就に、ね、使うて頂けれるほどしの、おかげを頂くことのために、ね、お互いが信心をさして頂かなきゃならない。
「難はみかげ」、または、あぁ、「御事柄」「御成り行きを大事にして」とここでは言っております、阿倍野でもそれに良く似たことを言うておられる、が、こういう風に言うておられます、ね、えぇ、「此方の道はね、難をおかげにしていく道だ」と、「一切の難儀は、それをおかげにして行く道だ」と言っておられます、ただ、難そのものがおかげじゃなくて、その難をです、おかげにして行く信心を目指さなきゃいけないっちいうことなんです、だから「この世の中には、信心さして頂いておれば、無駄な生活ということが全然無くなる」と言うておられます、ね、困った事だ、難儀な事だ、病気をした事だ、ただおかげ頂いただけならばです、それはそれだけは無駄です、(?)になるです、けれどもなら病気なら病気をした事によってです、それをおかげにして行く信心がその時出来るからです、それは無駄ではなかったということになるでしょう、おかげを信心にして行く道なのだと、ね、そこにです、私は生き生きとした、ね、お日参りの信心、しかも家族が勢を揃えて、ね、出来んならば朝参り的信心を、銘々の家庭の中にです、盛り上げて行くような、おかげを、今月は皆さん、工夫して頂きたい、ね、私も、今月は、もうあの今朝から頂いた御理解の中に、この人間心を、を、使わないということ、もう人間心を使わないというならば、私ぐらい使わない者はないだろうとこう思うんです、ね、けれども、それでも神様人間心を使うなと仰ったことの中に、もう大変厳しいことを頂いております、ですからこれは今朝の御理解でも聞いて頂くと良く分かりますが、あん、そういう意味での例えば今度は神乍な生き方を、今月の信心の、お~、焦点とさしてもろうて、信心を進めて行くつもりでおります、皆さんもどうぞ生きた信心を、目指し、生きた信心を、一つ研究して、ね、生きたおかげを頂いて頂くようにお願いいたします。
どうぞ。
入力者:誠輝